熊本地震から10年が経ったというニュースを見た。
私の住んでいる地方から遠かったが、やはり東日本大震災の記憶が新しいからこそ忘れられない出来事だった。思い出したことがある。あの熊本地震の少し後に夫は熊本へ日帰りで行ってきた。航空会社のキャンペーンで、4都市の中から日帰りができるフライトチケットにエントリーしたのだ。どこへ行くか直前までわからない。海外出張の多かった夫が、貯まったマイルを消化するために選んだキャンペーンの一つだった。期限の迫ったマイルを流してしまうのに惜しいくらいの量だったのだろう。詳細は覚えていない。「一緒に行こうよ」と言われたけれど、二人分のマイルには手が届かず、娘二人のことを考えると丸一日の行程は負担が大きかった。いつの間にか決まった場所は熊本。「震災のあとだけど大丈夫なのかな?」と心配しながらも、「始めていくからちょっと楽しみ」と言って出かけて行った。夜遅く帰宅すると「熊本城の石垣が崩れ落ちてそのままだった。修理したくても危なくて近づけないらしい。地震の爪痕が生々しかったよ。」とおみやげを開けながら話してくれた。お天気が悪くて雨が降っていたので、寂しげな印象だったとも。「こんなことがなければ、熊本なんて行くことはなかったなぁ。このキャンペーンも座席に余裕があるところが選ばれるんだろうけれど、おみやげを買うことで経済活動が少しでも回ればいいと思ってね」という話に耳を傾けながら「そうか。大きな災害があると経済活動が止まってしまうのか」ということにも気づかせてくれた。今なお、震災で家族を失った人たちがたくさんいることに想いを寄せたい。その気持ちはわからないわけではないから。
そういえば思い出したことがある。それまで一度だけ、豊富なマイルを使って夫婦二人で大阪へ日帰り旅行をしたことがある。ふぐ料理とひれ酒を飲むためという、なんとも風変わりな楽しい企画だった。私が「ひれ酒を飲んでみたい」というひとことから始まった計画だった。午前中のフライトで伊丹空港へ。食事と船場のドレス屋さんをぐるりと見てまた羽田へのフライトで戻ってくる企画だった。大阪に単身赴任の経験がある夫だったので、街の地図は頭の中に入っているので安心して任せた。慌ただしくて目まぐるしかったけれど、今となっては良い思い出だ。幼い娘たちを義両親に預けてのことだったので呆れられたけれど…日帰りだったのでお咎めはなかった。今だったらもっとリサーチして、3倍くらい楽しくできたかもしれないのになぁ・・・と思ってしまう。
一緒に思い出を語れる人がいないのは辛い。
今日は私にとって夫の本当の命日。
3年前の4月、私は夫と実父を12日の差で亡くしました。
片方は予告もなくいきなりのナイフのような事実が私たち家族を貫き、呆然としつつ、正気を保つことに集中するしかありませんでした。もう一つは、余命宣告を受けつつ、最後までの日々をどう燃やし続けるのか模索し、燃やし尽くした最期となりました。この二つの出来事は、私に相容れないものを同時に飲み込むという、狂気に満ちた経験を心に刻み付けることになりました。心から滴り落ちる血は、以前ほど大量ではないものの、未だにダラダラと流れ続けています。3年前の私は、何事もなかったように振舞い、普通に立っていることを自分に課すために目の前の事務的手続きを無我夢中でこなしました。夫や父のすべての名義を自分に変更することや、細かくて気が遠くなるほど多くて細かいアポイントメントと連絡作業。膨大な電話・メール・対面対応など。今考えても気が狂いそうになります。夫の葬儀の翌日に地域の理事会へ、平然と出席していた自分はおかしいとしか言いようがないけれど、そうすることしかできなかったです。そういった作業が積み重なってどれだけ神経を疲弊させ、果てしない底へ沈んでいくことになっていたのか。意識にありません。あのころの私は「なんだかヒマラヤ級の山々を踏破しなきゃならないみたいだ」と姉に呟いていたことを覚えています。
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昨夜、映画「ファーストキス 1st KISS」をみた。嗚咽が止まらなかった。
朝、アパートの玄関を出ていく後ろ姿を最後に事故死してしまう夫。遺された家族を苦しませている夫に対しての苛立ちを持て余している妻は、なぜか夫と初めて会った日へ何度もタイムスリップができるようになってしまう。過去に戻って夫の命を救うために些細な出来事をすり替えてみるけれど、最後の死はどうしても防ぎようがない。思い余って妻は、死を回避させるために自分ではなく他の人と結婚する選択肢を夫に選ぼうとさせるけれど、それが二人の本意ではないことに気がつく。結局夫は、自分が15年後に死ぬということを抱えながら妻と結婚してその最期までを二人で生きることを選ぶ。二人はその結末を選んだ。そしてやはり死はやってきた。
人生の中で本当に大切な人に出会えるって、なんて幸福なことだろうか。失うとわかっていてもその大切な人との時間が、15年であっても、25年であっても、50年であっても、たとえ1日であっても、何か拠りどころにできる出来事があれば人は生きていくことができるらしい。その拠りどころとは、些細なことかもしれないし、大きな出来事かもしれないし、困難なことかもしれない。私と夫は全く違う気質もあり、混乱して衝突することも少なくなかった。お互いに疲弊するほど神経をすり減らしたこともあったけれど、お互いにお互いから逃げることはなかった。最後の砦はいつでも二人だったから。
そして私は夫と一緒に家族を築いた。この家族は本当に唯一の大切な存在へと成長した。誰にも壊すことのできないほどの強い家族になったと誇りをもって言える。困難もたくさんあったし、大変なこともたくさん経験した。でも、その家族は夫としか創造することができないことであって、誰でも良いわけではなく、誰とでもできることではなく、私と夫でしかできなかった。
生きるということは、喪失と再生の繰り返しだ。
喪失は予測不能で突然の顔をしてやってくるけれど、再生は遅々としていてのらりくらりして進めることをしない。
それでもあきらめずに生きていくことが、失った人との時間を抱きしめることになるのだと思う。
そうやって、夫がいつまでも自分の中に生き続けることができるように。

私の母も、父も、夫もいっしょにここで私を待っている
今日は「花まつり」(灌仏会・かんぶつえ)
仏教の寺院では、お釈迦様の誕生を祝う代表的な行事と言われています。
花で飾られた「花御堂」の「誕生仏」(右手で天、左手で地を指すお釈迦様の像)に甘茶をかけて日々の幸せや無病息災、子どもの健康や成長を願う風習があるとのこと。甘茶をかけるのは、お釈迦様が生まれた時に天から甘い雨(甘露)が降り注いだといういわれに基づいているそうです。春の光があふれるこの時期に、子どもを連れてお参りする家族も多いとのことで、華やかで賑やかな行事ですね。
私がこの行事を知ったのは、夫と知り合ってからです。
夫の住んでいた近所に弘明寺観音(京急線・弘明寺(ぐみょうじ)駅)があり、たまたま花まつりちかくの週末に「花御堂」を見かけたので教えてもらいました。
「昔からこんな感じだったなぁ。甘茶のふるまいがあって、もらった記憶があるよ。結構子どもがたくさん来ていてにぎやかだったなぁ」と言いながら二人でお参りしました。その時は娘たちもまだ生まれていなくて、そのうち家族で来ることがあるのかなぁ、と満開の桜を見上げながらボンヤリと想像したことを覚えています。今年も変わらず、先日の週末と本日、花まつりの行事が開催された様子です。毎年変わらずに続く行事は、遠くにさまよう心がふと戻ってこれるような、そんな安心感がありますね。
今日は昨日の大荒れの天気から一転して、明るい日差しの一日。
新しいランドセルの小学一年生、新しい制服の中学生が、ちょっと緊張気味に歩いている姿を見ることができました。
季節もすっかり春本番となりました。
「いってきます」
「いってらっしゃい、気をつけてね」
私はその会話を最後に、二度と生きている夫に会うことができませんでした。
一番恐れていた別れ。
一番記憶に残したくなかった出来事。
今から3年前に、父の余命宣告を受け止めながら過ごしていた日々での出来事でした。
「余命」という言葉を聞くのも重くて苦しいけれど「突然」という別れも苦しいものです。
小説やニュースの出来事のようなことが、現実に自分に起こっていることに混乱し、不安にさいなまれ、絶望し、慟哭すると同時に、とんでもない数の連絡と手続きに決断を迫れられて、ごうごうと流れる激流に流されていく感覚がありました。ただ、その流れに流されてはいけない、自分自身である程度コントロールしなければ、という思いが沸き上がってきたことを覚えています。
そしてそのことを可能にするために、外部に対して氷のように感情を密閉することにしました。
私の場合は、そうすることで様々な手続きと日常生活を進めることができましたし、大量の決定事項を忍耐強く勧めることができました。
実際に手や身体を使って進める手続きは簡単です。
目に見えて進捗がわかるからです。
しかし、心は自分でもわからないものです。
自分自身でよく観察し、自分に問いかけ、自分の許容範囲を正確に判定しなければ、自身が病んでしまうのは簡単なことです。
今、しなくてはならないこと。
今、決断しなければならないこと。
少し待っても良いこと。
時間に任せればよいこと。
混乱した状況の中で、少しでも冷静に要られたことは、私がライフオーガナイズを学んでいたからだと思います。
私の母は、自分の両親亡き後の相続手続きで困難な状況が2年ほど続きました。
今まで世間知らずだったことが禍になり、精神的な負担が大きかった様子でした。
それでもなんとかすべてにきちんとカタをつけて「無事に終えられたわ」と手紙で知らされた時は私もホッとしました。
私自身はドイツ在住時だったので何も手助けができませんでした。
束の間、落ち着いた時期を過ごしたと思ったら、肺がん末期の宣告。
ストレスが、がん発症の一番のリスクということは本当のことです。
「喪の作業」は思っているよりも負荷がかかります。
外からは見ることのできない、深い悲しみと回復作業が行われていることに、他人は気づくことができないのです。
私は自分がこういった経験をするまでに、どれだけ他の人のことを傷つけたんだろうか・・・と苦しく思います。
その人に、ちゃんと「共感すること」ができなかったですし、「思いを寄せる」ことができなかったように思います。
「喪の作業」は本当に深くて重くて苦しいものです。
私は自分の辛さや自分の経験を、他の人と比較をしないと決めています。
その人なりの「喪の作業」があり、その人自身の「回復段階」があること、そしてその期間はその人によって何年もかかるということ。
あれから3回目の4月がやってきます。
私の「喪の作業」はまだまだ続きます。
多分一生。
私は仏教徒ではありませんが、日本の生活の中に自然に取り込まれている風習や季節を感じることには敏感でいたい、といつも思っています。
昨日から彼岸入りです。
お中日は春分の日(20日)、彼岸明けは23日です。
お彼岸は年に春秋の二回あり、あの世とこの世が近くなると言われています。
そのため、お墓参りをしたり仏壇にお花を飾って亡き人の話をたくさんする時期とされています。
親戚や友人が集まって昔話に花を咲かせたら、「思い出してくれた!」と思って亡き人は喜ぶでしょうね。
我が家には、家族ではないけれど思い出す人が何人かいて、ふとエピソードを語るときがあります。
ただ、仕事で一緒だった夫から漏れ聞くユニークな話も多くて・・・
心に残っているエピソードは、いつも集まる例会が木曜日だったのに、その月だけ水曜日に変わっていたのを忘れてお店の方に「あ、昨日終わりましたよ」と言われたことや、ダブルブッキングが当たり前だったのに、トリプルブッキングが発覚して周りが慌てたのに、本人からもう一つアポがあったことを知らされてクワトロブッキング(聞いたことない・・)だったり、愛犬が可愛くて「一緒のお墓に入る!」と決めて早々にペットと一緒に入れるお墓を購入してしまうなど・・・クスクス笑ってしまう小さなお話を聞くのがとても楽しかったです。
そこにいなくても人を笑顔にさせることのできる人。
そんな人に憧れます。
先日スーパーで見かけた「ぼた餅」(春はぼた餅、秋はおはぎと言います)は大きすぎて食べきれる自信がなかったので買いませんでした。
その代わり、桜色の和菓子を買って帰りました。
