今の時代、余命の話やお墓問題、相続に関しての話題が少しだけオープンに語られるようになってきた気がします。
老後の資金について、空き家問題、少子化・超高齢化社会の重さなどが、私のような一般的な生活者にも気づいてしまえるような状態になってきたからかもしれません。または、自分がその問題を通り抜けてきて、自分事としてとらえられるようになったからかもしれません。
【余命】という言葉を聞いたのは母を亡くすときに初めて聴きました。
「余命半年です」という医師の言葉を父が私に伝えました。
そのとき私は全く想像がつかず「1年以内なんだ」というボンヤリとした気持ちでした。
4か月後、母が自分で病院に連れてってくれといって入院した時も、私は「長い入院生活になるかも」とのんきに入院必需品を買いに行った覚えがあります。入院後に父と一緒に医師に呼ばれて聞いた言葉は「今日か明日・・・」と最後まではっきりと聞き取れませんでした。結局私の買ったものは何一つ使われず、入院の翌日に母は逝きました。母と仲の良かった叔母が、病院の売店で買ってくれた紫の小花模様のパジャマが似合っていました。喪主が父だったため、私は夫とともにアシストする役目でした。
父の気持ちまで心が追いつかなかったことを覚えています。
父の場合は「あと1~2週間くらいです。1か月は持ちません」と言われました。
それが長いのか短いのか・・・その時の私には全く想像がつきませんでした。
ケアホームに入居していたので、すぐに「看取り期の介護契約」に切り替わっていきました。
とにかく私は父が安らかに過ごせるように、今生に悔いなく安心できるように、ヴァイオリンをもって毎日のように父を訪ねました。
結局父は、3週間半で逝きました。
そのとき私は「お医者さんの見立てというのは、すごく正確なんだなぁ。プロなんだなぁ。」と尊敬の念をもって思いました。
どちらの日々も、とても重くて辛い日々でした。
いつ連絡があるのかわからない状態は、常に精神が臨戦態勢です。
そして、その先のことも準備しておかなければならないことも辛さに拍車をかけます。
葬儀に至るまでの手順やその後の膨大な手続き、後片付け、様々なケア。
私はどんなに辛くても予備知識として、頭に入れておくことは大切だと思います。
決められた順序があるならば、そのまま機械的に作業を進めること。
深く思いを巡らすことをせず、他のケアをすると決める。
自分は大丈夫か。
他の家族は大丈夫か。
連絡漏れはないか。
やるべきことはしっかりできているか。
傍から見れば、なんと冷たい娘なんだろうと思われることもあったかもしれません。
母のときには、祖父の葬儀経験が役に立ちました。
父のときは母の葬儀経験がそのまま活かされました。
25年の月日が経っていましたが、亡き人を収める手順に大きな変わりはありませんでした。
当事者として、決めなければならないことや、手続き関係をこなすのは大変なことですが、それも身内だから最後はしっかりと見送りたい、という一念でした。
今は年度末。
一つの区切りを感じることも多い季節です。
私自身は人生の先を追いかけて急いでいるように思えるときもありますが、生きるということはそういうことなのかもしれない・・・と静かに思う日々です。
15年。
その年月に思いを馳せます。
あの日、朝は晴れていました。
毎月参加させていただいていたボランティア演奏を終えて、一足先に会場を出て、いつものようにホッと一息つこうと思いながらも帰宅を急ぎました。
その日に限って。
月に一度のボランティア演奏は、私にとって息抜きの時間でもありました。
当時小学校4年と幼稚園年長の娘たちから、少しだけ離れられる時間は貴重でした。
演奏するために早く家を出てモーニングを食べて、演奏を終えたら一人で銀座にふらりと立ち寄ってお茶をして帰ることが楽しみでした。
その日は午後から雲が多くなってきたので、家に帰ることにしました。
電車に乗りながら、最寄り駅について一目散に自宅へ向かいました。
「娘たちが帰るまでに掃除機をかけてしまおう」と思いながら家について手を洗っていた時に揺れ始めました。
ただ事ではない揺れを感じて・・・
そのあとは混乱状態でした。
いつまでも、何度でも思い出す。
思い出すと気持ちの揺れが大きくなってざわめくけれど、私自身には必要なことだったりします。
どんなに波立たせることがあっても、収めることができれば良いと思っています。
あの年に生まれた子どもたちが、今、中学を卒業する年齢になっています。
近隣中学校の卒業式に来賓として参列しながら、様々な思いに駆られました。
幼馴染の友人と一緒に、お互いの大事な人が眠る霊園をめぐるツアーをしました。
実家が近くて3歳くらいからずっと一緒に、外を飛び回って遊ぶ友達でした。
私の幼少期は、彼女を抜きに語ることができません。
高校・大学はお互い全く違う道へ進み、一足早く社会人としてしっかりと働く友人に羨望のまなざしを送りながら、私もドイツへ留学して頑張る姿を見せました。
その後はつかず離れず。
結婚して家庭をしっかり守りながら、友人が転勤族のためになかなか会えない日々でしたが、ふと気がつけば、車で20分くらいのところに住むようになっていました。
彼女のご両親が、実家の近くの霊園に眠っていると聞いて
「あら、その道を通っていけば、私の家族の霊園にも行くことができるよ。霊園ツアーしよう!」
と誘うと
「いいわね!」
との返事だったので、昨年の2月に初めて一緒に行きました。
彼女のご両親には、本当にかわいがってもらいました。
大人になってからも、あいさつに伺うと
「あら~かおちゃん~元気にしてるの~?」
とニコニコと話してくださった笑顔は今も私の大切な記憶です。
彼女のご両親のお墓は樹木葬。
滝に囲まれた大仏さまの横に、名前を刻んだプレートが設置されています。
名前を確認しながら、手が届けばその銘板に手を触れながら偲ぶことができます。
きれいに手入れされた園内は風通りも良く、友人はふらりと立ち寄って気持ちを落ち着ける時間を取っているそうです。
「家が好きだった母が、ここだったら近くて大丈夫かなって思ったの。迷子にならないから。私もここで良かったなって思っているわ」
穏やかに話す友人は本当に優しい人です。
私の大事な人たちが眠る霊園は我が家から少し遠いのですが、所属する教会墓所なのでいずれ私もそこに一緒に入るつもりでいます。
娘たちには伝達済みです。
今後どのように変化していくのかわからないので(教会の体制も変わるかもしれない)注視していくことになります。
遠くに海がちらりと見え、静かな山を見上げる静かなところです。
娘たちが一時帰国した時は必ず立ち寄りますし、私一人でもふらりと行くこともあります。
この3年くらいは元旦にお参りしています。同じような思いをもって訪れる人も多い様子なので、寂しい思いが少し薄れます。
今回は友人と二人で、思い出話をしながら、辛いことをポロポロと話す時間がとても貴重でした。
普段は忙しさに紛れてしまうこと、言っても仕方のないこと、どうしようもないこと・・・
そんなことも、友人だったら話すことができます。
お互い厳しい時期を通りながら生きていることは、経験を積んだこの年齢だからこそ共有できるのではないかと思います。
笑ったり、泣いたり。私たちだけにしかわからない、思い出話の数々が本当に愛しい時間でした。
余談:ちょっと老眼気味の友人が
「連絡もらった文章の【霊園ツアー】が【雪国ツアー】にみえちゃって、何言ってんのかしら~って思っちゃったのよ」
書いている今も、判別しにくいな…と思ってしまいました・・・
私たちもいつまで同じようにツアーができるかわからないので、今この時間を大切にしようと決めました。
「私は母のために花を絶やしたくなくて
いつもなにか、生花を飾っていました。自分のためでもありました。」
大喜びの実父の様子が
おかしいやら、気の毒やら・・・