こんにちは。ヴァイオリニストの塚本香央里(つかもとかおり)です。
今日は土曜日の思い出のことをお話ししましょう。
私が小学校5年生の冬から卒業まで
栃木県大田原市に住んでいました。
台所の窓を開けると、那須連山が遠くに見える
穏やかな土地でした。
父の仕事の都合で、ドイツからビュッと・・・
今まで全くご縁の無かった土地での生活は
なかなか難しいものがありました。
この時一番困ったことがヴァイオリンのレッスン。
帰国してからすぐに以前の先生の所へあいさつに行くと
「東京まで通うのは遠いのでは?
仙台と東京とどちらが良いかしら?」と聞かれて
私の母は即座に「東京まで通います」と答えました。
「とにかく東京に通わないと忘れられてしまうわよ」とのこと。
たしかに、東京へのレッスンをあきらめてしまうと
先生の手から離れることになってしまう。
たとえ、父の仕事がまた東京に戻ったとしても
レッスンの先生から一度手を離れてしまったら
戻るのは大変かもしれない。
音楽高校を目指すのであれば、なおのこと・・・
その時の母の英断は、その後も我が家で語り継がれる武勇伝でしたが
当時の私にはぼんやりして理解していたかどうか。
と言いつつも、なにしろ東京は遠い・・・
当時、東北新幹線が開通していなかったので
「特急はつかり」に乗って上野へ行き
帰りは上野発の各駅停車で帰ってきた記憶があります。
(当時は東北本線が上野止まりだった)
往復5時間近くでしょうか。
20時13分上野発の列車を逃すと、その日のうちに家に帰れない・・・
もちろん、平日にレッスンに行く時間はないので
必然的に週末になります。
私のレッスンは毎週土曜日の夕方に設定されました。
当時の小学校は土曜日も半日授業がありました。
午前授業を終えて帰宅すると
母が「さ、早く食べて」とお昼ご飯を手早く済ませると
着替えて靴下を取り換えて
ヴァイオリンと楽譜カバンをもって家を出ると
父が車でスタンバイしています。
父が西那須野駅まで送ってくれて電車に乗り込み
乗り換えながら上野まで。
先生のお宅は目黒でした。
レッスンは16時か17時から。
きっかり1時間のレッスンを終えて、
時間のある時は目黒駅の喫茶店で
ケーキを食べさせてもらって
(母はいつもレモンスカッシュだった)
上野まで急ぎます。
夕食はキオスクで買った駅弁。
牛丼弁当が好きでした。
通勤電車のようなぎゅうぎゅうの列車内で
駅弁を食べると
ちょっと恥ずかしかったです。
食べるとウトウト眠くなってきて
23時頃に駅に到着すると、父が迎えてくれます。
ほとんど(疲れて)無言のまま帰宅して
布団に潜り込む・・・
そんな生活が1年続いたところで
父を置いて母と二人で横浜へ帰ってきました。
「音楽高校に行くなら、ピアノとソルフェージュを始めなきゃ」
という先生の鶴の一声で母が決断し
地元の中学で着るはずだった制服を
翌日にはキャンセルしていました。
あの栃木から東京へのレッスン通いは
私の中でも今なお、印象的に残っています。
母と二人で列車に乗って出かけるウキウキした感覚。
1時間のレッスンで詰め込まれた刺激と、
他の生徒のレベルの高さに打ちのめされる日々。
ご褒美のケーキの味。
帰りの列車で話しかけられる東北の言葉。
大変だったはずなのに
楽しかったな、という記憶にすり替わっています。
あの頃、小学生も夕方5時くらいまでクラブ活動があったり
(バレーボール部にスカウトされて入部したり
合唱部でNHK合唱コンクールの群大会に出場したことがありましたね。
そのほか、ブラスバンド部でコントラバスをあてがわれたけれど
さすがに弾けなくてアコーディオンを担当していた時もあったなぁ。
夏休みに水泳部に入ることになって大会も決まっていたのに
ヴァイオリンの講習会が重なってあきらめたり・・・)
アレコレ引っ張り出されて、色々なことをしていました。
練習時間がないのに、夕方遅くまで活動をして
帰宅してからカップラーメンをおやつに
ヴァイオリンの練習をコソコソとこなして
夕食の後はちょこっと宿題をこなして寝る。
全然練習時間は足りてなかった・・・
でも、
ヴァイオリンだけを弾いていたわけではないからこそ
私の軸になっている芯の部分は
彩り豊かだと自信を持って言えます。
そしてあの時
いつも父に従順で
それほど意見を押し出すことのなかった母の
大きな決断の連続に
母の底力をひしひしと感じたものでした。